2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」に登場する細川藤孝(幽斎)は、天皇陛下のご先祖です。このページでは、細川藤孝から陛下までの系図と、関連するページへのリンクを掲載しています。各ページの系図を見れば、細川藤孝から現代の皇室までどのように血が受け継がれてきたかが、すべて分かるはずです。
細川藤孝(幽斎)から陛下までのつながりは?
細川藤孝の嫡男・細川忠興の正室は、明智光秀の娘・玉(細川ガラシャ)です(この婚姻は織田信長の薦めによるもの)。そして、細川忠興とガラシャの子孫から天皇の生母となる人物が出て、現在の皇室までつながっています。以下は、細川藤孝の孫・細川忠隆を介して皇室につながる系図です。
他にも、忠興とガラシャの娘・多羅から皇室へとつながる系図もあります。詳しくは、以下の記事をごらんください。
なお本能寺の変の際、細川藤孝・忠興親子は明智光秀からの協力要請を断って、玉(ガラシャ)を幽閉しました。このことが、光秀の敗死を決定づけたとも言われています。明智光秀と細川藤孝、最終的に道をたがえることになりましたが、共通の子孫の血は後世に伝わり、皇室へも入っているというわけです。
「関ケ原の戦い」での細川藤孝(幽斎)
細川藤孝は隠居後、雅号「幽斎」を名乗ります。隠居後の活躍のほうが有名なせいか、「細川藤孝」ではなく「細川幽斎」という名で広く知られています。
本能寺の変の後は豊臣秀吉に仕え、秀吉の死後は徳川家康に接近します。そして関ケ原の戦いでは、東軍(徳川方)として丹後田辺城に籠城し、500に満たない兵で西軍1万5000人を関ケ原から遠く離れた丹後に釘付けにすることで、東軍の勝利に貢献しています。
細川幽斎は武人としてだけではなく、歌道や茶道にも通じた当代随一の文化人でした。特に歌道では当時「古今伝授」を相伝した唯一の人物であり、もし田辺城の戦いで幽斎が敗死すれば、古今伝授が失われてしまう恐れがありました。そのこともあり、最終的に後陽成天皇の勅命により戦いが差し止められ、命を落とすことはありませんでした。
なお、後陽成天皇も天皇陛下のご先祖です。後陽成天皇と細川幽斎、共通の子孫である仁孝天皇は、田辺城の戦いの200年後、西暦1800年に誕生しています。
一方、嫡男の細川忠興は関ケ原本戦において、前線で石田三成の本隊と戦い、戦後39万9,000石の大名となっています。関ケ原の戦いに参加した天皇陛下のご先祖は、以下の記事にまとめています。
「麒麟がくる」に登場する天皇陛下のご先祖まとめ
「麒麟がくる」の登場人物のうち、以下の方々が天皇陛下のご先祖にあたります。リンク先を開いて系譜を見比べれば、どの登場人物の血が、どのようにあわさって現代まで受け継がれたのか分かるでしょう。
コメント