「関ヶ原」で戦った今上天皇の祖先まとめ

今上天皇の直系祖先

「関ヶ原の戦い」は、戦国時代において最も有名な合戦でしょう。全国の大名・武将が、「東軍」と「西軍」に分かれて、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)で激突しました。この関ヶ原で行われた本戦だけでなく、両陣営が全国各地で行った戦闘も含めて「関ヶ原の戦い」と呼ばれることもあります。

「関ヶ原の戦い」に参戦した武将の中には、今上天皇の直系祖先にあたる人物も存在します。勝利した東軍の武将はもちろん、破れた西軍の武将の血も、現代の皇室まで伝わっています。関ヶ原で戦った東軍、西軍双方の武将が今上天皇の祖先であるという事実に、歴史の面白さを感じる人も多いでしょう。

このページでは、関ヶ原の戦いに関わった武将のうち、今上天皇の直系祖先にあたる人物をまとめて紹介します。各人物から今上天皇までの系譜については、人物別ページを参照してください。

東軍

徳川家康

関ヶ原の戦いで勝利した東軍の総大将であり、後に江戸幕府を開府した徳川家康の血は、もちろん皇室へと伝わっています。家康は多くの子供に恵まれ、成長した男子は将軍や大名となり、女子は有力大名へ嫁いでいきました。そのうち、世継である2代将軍の秀忠、家康の命により切腹させられたと伝わる長男の信康、豊臣家の養子から結城家の養子となった次男の結城秀康、尾張徳川家の祖となった9男の義直、紀州徳川家の祖となった10男の頼宣、池田輝政の正室となった次女の督姫から、現代の皇室へと血がつながっています。関ヶ原の戦いが行われた1600年ごろに生きていた人物のうち、これほど多くの子女から皇室へ血を伝えている人物は他にいません。詳しい系譜は徳川家康のページを参照してください。

徳川秀忠

上述の通り、2代将軍の徳川秀忠も今上天皇の祖先の一人です。ただし、関ヶ原の戦いでは徳川の主力部隊を率いて中山道を進軍したものの、本戦に間に合わず、参加できませんでした。今上天皇までの系譜は徳川秀忠のページを参照してください。

結城秀康

徳川家康の次男で結城家の養子であった結城秀康は、関ヶ原本戦には参加せず、上杉景勝・佐竹義宣を牽制するため宇都宮城を守っていました。戦後、下総結城10万1000石から越前北庄68万石に加増移封されています。今上天皇までの系譜は結城秀康のページを参照してください。

池田輝政

家康の次女・督姫を正室とした池田輝政も今上天皇の祖先の一人です。関ヶ原の戦いの本戦が始まる前に、岐阜城の戦いで福島正則と共に岐阜城を攻め落としています。ただし、本戦では南宮山の毛利勢を抑える役割を担ったため、戦いには参加していません。後に播磨姫路藩の初代藩主となりました。今上天皇までの系譜は池田輝政のページを参照してください。

京極高知

名門・京極家に生まれ、豊臣秀吉に使えた京極高知も今上天皇の祖先の一人です。関ヶ原本戦で、東軍として大谷吉継隊などと戦いました。今上天皇までの系譜は京極高知のページを参照してください。

蜂須賀至鎮

蜂須賀至鎮(はちすか よししげ)は、14歳で関ヶ原本戦に参加しています。徳島城主であった父・家政は西軍によって徳島城より高野山へ追放されましたが、戦後、至鎮が家督を継ぎ、初代徳島藩主となりました。後に大坂の陣でも武功を立て、淡路7万石を加増されています。今上天皇までの系譜は蜂須賀至鎮のページを参照してください。

細川幽斎

文化人としても有名な細川幽斎は、丹後田辺城に籠城して西軍と戦いました。2ヶ月に渡る籠城の末、関ヶ原本戦の2日前に、後陽成天皇からの勅命により停戦となりました。今上天皇までの系譜は細川幽斎のページを参照してください。

細川忠興

細川幽斎の子である忠興は、関ヶ原本戦で東軍として、石田三成の本隊と戦いました。大阪の屋敷にいた妻の細川ガラシャ(明智光秀の娘)は、本戦より前に西軍の襲撃を受け、自害しています。なお、第79代内閣総理大臣の細川護煕は、細川忠興の男系子孫です。今上天皇までの系譜は細川忠興のページを参照してください。

細川忠隆

細川忠興の子である忠隆も、忠興と共に関ヶ原本戦で武功を立てました。しかし、母のガラシャが自害した際、妻の千世が大阪の屋敷を脱出していたことを父・忠興に咎められ、夫婦共々細川家から追われることになりました。今上天皇までの系譜は細川忠隆のページを参照してください。

松倉重政

筒井順慶の家臣、松倉重信の長男として生まれた松倉重政は、関ヶ原本戦で武功を立てて大和五条藩1万石の大名となりました。その後、大坂の陣においても軍功を挙げたため、肥前島原藩4万3000石に加増移封されています。しかし島原藩ではキリシタンの弾圧を行い、息子の松倉勝家とともに島原の乱の原因を作りました。今上天皇までの系譜は松倉重政のページを参照してください。

牧野康成

牧野康成は、中山道を進軍した徳川秀忠軍に属して真田昌幸が守る上田城攻めに参加しました。その際、秀忠に無許可で城攻めを行い、惨敗したため蟄居処分となりました。後年、許されて上野大胡藩初代藩主となっています。今上天皇までの系譜は牧野康成のページを参照してください。

小笠原秀政

小笠原秀政は、関ヶ原の戦いにおいて宇都宮城の守備にあたっていました。戦後、信濃国飯田藩主となっています。その後、大坂の陣において長男・忠脩と共に戦死しています。娘が上述の蜂須賀至鎮の正室となり、現代の皇室まで血が伝わっています。今上天皇までの系譜は小笠原秀政のページを参照してください。

溝口秀勝

溝口秀勝は、西軍の上杉景勝の扇動により越後国で蜂起した一揆の鎮圧に努めました。その功により、新発田藩初代藩主となっています。今上天皇までの系譜は溝口秀勝のページを参照してください。

堀秀治

堀秀治は、上述の溝口秀勝と同様、越後国で一揆の鎮圧にあたりました。その功により、越後福嶋藩となっています。今上天皇までの系譜は堀秀治のページを参照してください。

松浦鎮信

平戸を本拠とした松浦鎮信は、関ヶ原の戦いに際して東軍に与しました。戦後、平戸藩初代藩主となっています。今上天皇までの系譜は松浦鎮信のページを参照してください。

西軍

石田三成

関ヶ原の戦いにおいて西軍結成の首謀者とされ、敗戦後に斬首された石田三成も、今上天皇の祖先の一人です。ひ孫(次女の孫)が3代将軍・徳川家光の側室となり、その娘の血が尾張徳川家に入り、二条家、九条家を経て昭和天皇の母、貞明皇后へと受け継がれています。今上天皇までの系譜は石田三成のページを参照してください。

石田正継

石田三成の父・石田正継は、三成の居城・佐和山城を守っていました。関ヶ原本戦で西軍が破れた後、東軍に攻められて自害しています。今上天皇までの系譜は石田正継のページを参照してください。

宇多頼忠

娘(皎月院)が三成の正室となっていた宇多頼忠は、石田正継らとともに佐和山城を守り、東軍に攻められて自害しています。今上天皇までの系譜は宇多頼忠のページを参照してください。

島津義弘

猛将として有名な島津義弘は、関ヶ原本戦で西軍として布陣しました。西軍が総崩れとなる中、東軍の中を突破して撤退しています。戦後、家康によって島津討伐が試みられたものの合戦には至らず、最終的に島津氏への処分は行われませんでした。今上天皇までの系譜は島津義弘のページを参照してください。

谷衛友

谷衛友は、西軍として細川幽斎の籠もる丹後田辺城への攻撃に加わりました。しかし、細川幽斎は谷衛友の和歌の師であったことから内通しており、空砲を撃ったとされています。戦後、幽斎のとりなしにより本領安堵され、丹波山家藩の初代藩主となりました。今上天皇までの系譜は谷衛友のページを参照してください。

稲葉貞通

稲葉貞通は、当初西軍に属して尾張国犬山城を守っていました。しかし、後に東軍に寝返り、水口岡山城の攻略などで武功を立てました。戦後、豊後国臼杵藩の初代藩主となっています。今上天皇までの系譜は稲葉貞通のページを参照してください。

松浦久信

東軍に与した松浦鎮信の嫡男・松浦久信は、西軍に属して伏見城攻めなどに参陣していました。しかし関ヶ原本戦には参陣しておらず、父が東軍に加わっていたことから処罰を受けることもありませんでした。今上天皇までの系譜は松浦久信(平戸藩主)のページを参照してください。

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